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引き継ぎの難しさ

 大学では卒業論文や修士論文の提出が済むと、あとは学位授与式までに研究成果の引き継ぎを残すところとなる。この引き継ぎが意外と難しい。全ての引き継ぎを教員ができるのであれば良いのだが、現実はそうではない。研究テーマを継承する下級生が引き継ぐこととなることが多い。 学生同士の引き継ぎでは、引き継ぎ方法の指導が適切に行われないとどのようなことが起こるのか。そもそも、卒業または修了していく学生には何を引き継いで行って欲しいのか。  1. 研究で取得したデータ  2. シミュレーションや解析に使用したプログラム  3. 研究ノートなどの記録 これらがあれば、研究の資産を研究室の財産として残すことができる。 しかしながら、卒業していく学生が引き継ぎを行うとき、ついつい自分の研究内容を熱く語ってしまうことが往々にしてある。気持ちはわかる。自身の研究に思い入れがあり、引き継ぐのであれば研究内容も理解して欲しくなってしまうのだ。しかし、考えてもみて欲しい。1年間、または2年間かけて行った卒業研究や修士論文研究が高々数時間で引き継げるはずもないのである。挙句、引き継ぎはうまくいったか聞いてみれば、  「はい、とても面白い研究だと思いました。」 と返ってくるが、解析プログラムはちゃんと動かせるねと念を押せば、  「そこは時間が足りなくて完全には引き継げませんでした!!」 と返ってくる。こうなると、せっかくの研究資産が闇に葬られてしまうのである。 最近は、引き継ぎは事務的に行うのだと強調している。内容を理解する必要はない、むしろできなくて当然なのだと。内容を理解したくなったら、そのときに卒業論文、修士論文をしっかりと読めば良いのだ。ということで、実は引き継ぎは論文をしっかりと仕上げるところから始まっているということもできる。そういう意味では、論文の添削は最重要事項である(今再確認した...)。 いずれにせよ、学生にはせっかく頑張った証である研究成果をしっかりと研究室に残して、「立つ鳥跡を濁さず」で社会へ旅立っていって欲しいものだ。

常識とは

学生の指導をしていると、話が噛み合わないときがある。 そういうとき、これはもしや"常識"がないということなのではないかと最近では考える。 常識という言葉には、これまでの経験上噛み付いてくる人が結構いる。 「それはあなたの常識であって、私の常識ではない」 こう言われてしまうと元も子もないのだが、果たしてそれは常識と言えるのであろうか。  常識とはそもそも新明解国語辞典によると「健全な社会人ならもっているはずの、ごく普通の知識・判断力」とある。 噛み付いてくる人はおそらく、この"健全な社会人"に反応しているのだと思う。 話している相手が前提としている常識が自分とは違う時、 間接的に"健全な社会人"ではないとの烙印を押されている気持ちになっているのではないか。 私自身は、国語辞典の"常識"は、たしかにかなり主語が広いような気がしている。 おそらく親戚、学校、サークル、職場、など所属する組織ごと、または児童、学生、社会人などの社会的地位ごとにも常識は存在する。 それを踏まえた上で、人はどの常識の中で物事を判断すべきかを考えるべきだと思う 例えば就活中の大学生であれば、就活で相手にするのは日本中の大学生であり、採用する側の社会人である。 そういった時、個人の思いであったり自分の大学の中での常識を振り回しても、それは相手にされない。 つまり、 「どの土俵で勝負をするかによって常識を切り替える」 そういったことが必要なのではないか。

「 失敗をしてはいけない」という強迫観念

最近の学生を見ていると、わからないところがあるとそこで止まってしまってなかなか先に進まないということが多い。教えてもらうのを待っているようである。本来は自発的に調べて解決してほしいし、それでもわからない場合は自ら助けを求めてほしい。 これを「最近の学生はこれだからダメなのだ」で済ませてよい話なのだろうか。 学生の考えていることを分析してみると、どうやら「失敗をしてはいけない」「余計なことはしてはいけない」というような強迫観念から動けないのではないか、ということが見えてきた。 最近の学生は、小中高時代に先生から「言われたようにやりなさい」という教育を受け、異なるやり方をすると「余計なことはするな」「そのやり方は教えていないからダメだ」のように言われているケースが散見される。これでは、自発的に行動することはできなくなって当たり前である。 私は、学生は「大いに失敗して良い」と考えている。もちろん「失敗しない方が良い場面」はあるが、人は失敗するものである。普段から失敗を恐れず、たくさんの失敗から多くのことを学んでいれば、少なくとも「失敗しない方が良い場面」での失敗を減らすことができるのではないか。 そのためにも教員は、学生が失敗しても良い場面を用意し、気長に暖かい目で見守っていかなければならないのだ。そして、学生にはたくさん失敗し、その中から多くを学んでほしいと思う。 (とある大学教員)